いつものトラックで、国道を走っていた。
北海道の道はまっすぐに伸びている。
5月の空は青くて、高く清んでいて、心地良かった。
だから、覚えているのかもしれない。
年下の彼との出会いの日を。
『Friend』フレンド 〜はじまりのはじまり〜
***第1話***
鈴木亜希子はタンカーに積載するコンテナサイズのトラックを走らせていた。
北海道の海岸線の道をほぼ真直ぐに進む。
昨夜の時点で積荷の入れ替えが完了していたおかげで、時刻は予定通りの出発だった。
真直ぐ伸びた道に、人影が立っている。
亜希子は少しだけアクセルを緩める。エンジン音が穏やかになって、だんだんとその人影に近づいていく。
バックミラーにちらりと目をやる。
後続車両は一切来ていない。
亜希子がその人影を確認し、ひとり呟いた。
「なにあれ?」
すぐに亜希子はピンときた。
バックパッカーほど大きな荷物ではないが、若者がひとり道路側に片手を突き出している。
「あぁ、なるほど。珍しいわね」
慣れた手つきでハザードのスイッチに手をやった。
親指を上につきたてた格好の青年は、嬉しそうに両手を振った。
亜希子はアクセルから足を離し、ギヤをおろしながら、ブレーキをかけた。
大きなトラックが道端で停車する。
青年はドアを開けると、声だけを中に放り込む。
「いいの?」
「乗れば?どこまで?」
亜希子の返事ににっこりと笑い、助手席に腰掛けた。
真直ぐ前を指差して、「道南大学」と告げる。
亜希子は「大学?」首をかしげ、ハザードを消して、エンジンを吹かした。
青年は指差したまま、「とりあえず、この道まっすぐ」というと、ピンときたのか、ハンドルを握った亜希子がうなづいた。
「あぁ、あそこね」
***
青年は静かに腰掛けていた。
車内がエンジン音で満たされていく。
亜希子がギヤをひとつ上に入れ替えたタイミングで、二人同時に口を開いた。
「珍しいね」
「珍しいわね」
その問いかけに、また、二人同時に返答する。
「なにが?」
「なにが?」
亜希子が黙ると、青年が口をひらいた。
「女がトラック運転手とか」
「知らないだけよ。意外と多いわよ。タバコすっていい?」
「あんたの車じゃけぇ」
聴きなれない方言交じりの言葉で青年が言う。
亜希子がオイルライターでくわえた煙草に火をつける。
それにあわせて、目を細めながら、手回しのレバーで窓を3センチほど開けた。
青年が尋ねる。
「そっちはなにが?」
亜希子が煙を吐き出すと、風が流れるそのままに3センチの隙間から煙草の香りが逃げていった。
「あの、あれ、ハイジャックじゃなくて……」
煙草をもった亜希子の左手が空中をふわふわと掴むものがつかめずにもがいている。
間髪居れず青年はニヤニヤ笑いながら頷いた。
「あ〜、うん、ハイジャックね」
「じゃなくて、なんだっけ?」
青年は指で銃の真似をすると亜希子に向けて声を投げた。
「動くな!このトラックは占拠した!ってやったほうがええ?」
少しも動揺を見せることなく、煙草の灰を灰皿へ軽く落とす。
「じゃあ、止める?」
「出せ」
「出してる」
「ヒッチハイク」
「そうそれ」
「脳みそ死にかけとるよ?おばさん」
「おばさんってなによ、いくつにみえる?」
青年は少し考えて、隣に座った化粧っ気の無い女を見据えて言った。
「にじゅ、う、よんとか?」
「なんで当てるのよ。もう少し若く見積もんなさいよ」
「え?マジで?」
「そんなもんよね」
「あたったけぇ、なんかちょうだい?おねえさま」
「あんた調子いいわね」
「テキトー。」
「じゃあ、ん。一本吸えば?」
そう言って亜希子は煙草を差し出した。
「ん、ありがと」
「あんたいくつ?」
「俺?18」
「はい、ぼっしゅーぼっしゅー、返しな」
「ちぇー」
一度差し出した一本の煙草をストンともとの箱に収める。
「吸ったことあんの?」
「ないよ。俺いい子だから」
「いつやめたの?」
「15とか?高校入ったからやめた」
「頭パァんなるわよ」
「大丈夫、これ以上ネジはずれねぇから」
「あっそ」
言葉のテンポが心地良い所為か、ふたりとも以前からそこに座っていたかのような穏やかさを感じていた。
エンジンの音が広がっていく。
沈黙も、不思議と心地好い。
「あのさ、この道よく通る?」
「なんで?」
「また乗せてよ」
「別にいいけど? あんた、名前は?」
「畑俊彦」
「ふぅ〜ん」
少しだけ短くなった煙草の灰を、またコトンと落とす。
畑と名乗った青年は、夏の北海道の風のように、言葉を放り投げてくる。
「じゃ、また今度見つけたら、ハイジャックするよ」
「うるさいわよ、おこちゃまはキャラメルでも食ってなよ、ん」
亜希子の胸ポケットに入っていたキャラメルの箱を助手席に放りなげると、
ひとこと、「ありがと」と言って包み紙をあけると、畑はぽいっと口に放り込んだ。
甘いものが好きなのだろうか。
18歳の青年が、少しだけ、幼い表情を垣間見せた。
24歳の亜希子は、弟を見守るような柔らかい感覚が広がっていくのを、その胸に感じていた。
いつものトラックは、畑をおろしたあと、そのまま国道を走っていく。
北海道の道はまっすぐに伸びている。
5月の空は青くて、高く清んでいて、心地良かった。
年下の畑という青年との出会いの日は、そんな澄み渡る晴れの日だった。
それが、<今日>という日から、9年前の出来事。
***
鈴木亜希子の研究室には時折決まった音楽が流れる。
なんとなく聴きたくなって、引き出しの一番上からCDを取り出した。
何度も聞いた音楽。
だけど、聞き飽きないのは、思い出の中の景色をいつまでもカラーで撮っておきたいから。
先生と呼ばれるような立場になって、4年目の夏を迎えていた。
「せんせー、はいるよー?」
その声に気付いて、音楽を少し小さくした。
いつも来る女学生が今日も小さくノックをして、顔をだした。
顔を見て、ようやく亜希子が返事をする。
森下空。4年生だ。
亜希子が顧問をつとめる『飛行機サークル』の部長をしている。
「論文書いてた?」
亜希子が顔を上げると、デスクの上を覗き込むように眺めている。
この4年間何度も繰り返した。
空が尋ねる。
「論文?」
視線の先に3枚綴りで複写式の見慣れない書類があった。
「あぁ、これ?」
亜希子の指差した先を見つめて、けれど、空は首を横へ振った。
肩まで伸びた女性らしい明るい色の髪が柔らかく揺れる。
「ううん、その曲」
「これ?」
亜希子はサイドテーブルのCDラジカセを指差した。
カセットテープを一度も使ったことのないラジカセはCDの再生ボタンの印字が擦れて消えかけている。
「うん、そのCDかけてるとき、先生論文書いてない?」
「そうかな?」
「ちがった?」
改めてそう尋ねられて、けれど、とっかえひっかえCDは再生している。
その日の気分だというざっくりとした認識でしかないから、亜希子は「わかんない」としか答えられなかった。
もしも、統計を録り、正確に分析してみたとしたら、空の仮説は正しい気がする。
その仮説を立ててみたとしても、ざっくりと――わかんない。
「なにしてたの?」
「これ?」
再度デスク上の書類を指差した。
空が今度は縦に頷いた。
「これね、論文を書き終わったので、提出しますっていう、書類のために提出する書類のために提出する書類」
空はコーヒー豆をそのまま舐めたような顔をして「めんどくさそー」と言った。
「そうでもないわよ?慣れれば平気」
コレより面倒くさい作業は山のようにある。
けれど、性格に合っているのか、苦に感じたことは――改めて自問して――特に見あたらなかった。
シアワセな職業に出逢えたのかもしれない。
「3年も先生やってたら慣れちゃうか?」
空に言われて時間の長さを感じた。
「うん、そういうもんよ。院生のころから数えたら、8年?」
「そーゆーもんかぁ」
空がカレンダーに目をやる。
今日も何かサークルで決定したことがあるのかもしれない。
亜希子は書き終わった書類をまとめてデスクの脇に追いやった。
学生と話すときはデスクの上をあける。
コーヒーを入れて、そのマグカップを自由におけるくらいの広さに。
自分で勝手に決めて、だけど、継続している事柄だった。
自分が学生の時の感情を忘れたくない。
真直ぐ向き合ってもらいたい存在になりたかった。
自分自身が素直に向き合いたい相手だと思えないことは、したくない。
デスクの上を開けて、立ったままの空を見上げた。
いつもの遠慮しない顔がそこにある。
「空ちゃんどうしたの?」
「あ、えっと、最終テストフライト予定決まったから」
「慶太くんが?」
「うん」
2日前まで設計図に赤ペンを入れ続けていた飛田慶太を思い出した。
金属加工担当の工藤純一と二人で頭を悩ませていた。
カレンダーに一度目をやった。やっぱり3日も経ってない。
「大丈夫なの?」
「うん。調整うまくいったみたい」
空がにっこり笑った。
サークルがうまくいっているときは、素直に笑顔をくれる。
疑う余地はなかった。どうやら大丈夫らしい。
「いつがいい?」
ふたりして再びカレンダーに目をやる。
「来週中のー、」
空が指でカレンダーをなぞりながら、「どこかがいいって」と答える。
「じゃあ、教務課に聞いとく」
「ありがと……」
いつものパターンで……と頭を動かして、けれど空がその笑顔を曇らせた。
どうしたの?と尋ねる前に、空が口を開く。
「それとね」
「どうかした?」
「部長の件なんだけど、夏の大会前に交代、済ませちゃおうかと思って」
「大会前に?」
「うん。プラットホームから飛び立った瞬間には、来年が始まるから……だから」
「そうね。……で、やっぱり」
「慶太しかいないと思うから。だから、ちょっとだけ早いほうがいいと思って」
「そっか」
「うん」
道南大学飛行機サークルは、正式に、はじめての世代交代を迎えた。
考えてみれば、森下空は2年生から4年生の今日まで部長としてがんばってきた。
思い返すと長い道のりで。
だけど、目の前に迫った時間はとても短く感じられた。
タイミングも4月になった頃からずっと悩んでいた。
あまりにも早ければ、3年生の慶太には荷が重い。
慶太に任せた【設計】という任務は、彼にしかできなかった。
――最終調整が可能になるまで。
空はひとつ答えを出した。
上手に飛ぶために。
上手に飛べるはずだと、信頼する仲間がそう言ってくれるまで。
空は待っていた。
彼女らしい決断だ。
だからこそ、彼女らしいタイミングがいい。
そう考えて、亜希子はひとつ提案をした。
「なら、来週の日曜日、カレーにしてもらうってのはどう?みんなでつくろ?」
「テストフライトの時じゃなくて?」
「みんなが集まる理由なら、そっちのほうが空らしいんじゃない?」
「……先生。」
嬉しそうに微笑む。少しだけぎこちないのは、涙が出そうだからかもしれない。
世代交代という言葉は、空にとって、今年が最後の大会になることを意味している。
その為の報告の日なら、来てくれないほうがいい。
先延ばしにできるのなら、そのほうがいい。
だけど、卒業は必ず訪れるから。
亜希子は言った。
悩みを抱えているタイミングで何度も言ったいつもの言葉。
空にとっても、亜希子にとっても、大切な魔法のような合言葉。
「お父様にも相談してごらん?」
「うん。そうする」
――大丈夫。
亜希子が無言で頷くと、空がまたひとつ頷いた。
「空も、もう4年生なんだね」
亜希子が空の頭を優しく撫でる。
「うん」
こうやって撫でてあげられるのも、あと何回だろう。
亜希子の淋しさが、空に伝わって。
空の淋しさが、亜希子に返ってきた。
空が上目遣いで亜希子に言った。
「先生、ありがと」
亜希子はニッコリ笑って、空の頭を勢い良くかき乱した。
「ばーか、まだ早いわよ」
しんみりした風は、彼女に似合わない。
空の表情にいつもの明るい笑顔が戻る。
「ごめん。じゃあ、お父様に連絡してみます。
それから、グランド許可もらえたら教えて」
そう言い残して空が亜希子の研究室をあとにした。
扉が閉まって、また元どおりの静かな研究室になった。
きっかけは、亜希子にとっても、空にとってもアイツだった。
ひょうひょうとして、青い空を漂っているあの雲のような男。
研究室から見上げた窓の向こうは、もう夏の空に変わっていた。
清々しく晴れた青空。
雲は畑俊彦で。
青色は森下空の笑顔が似合う色。
窓に映った亜希子は、うっすらと浮かぶ自分の姿を見つめる。
なんとなく、置き去りされているような気持ちをその心に抱えていた。
*つづく*