『 Friend 』

Special




洞爺湖に響く小さな歓声。
前回の第1回大会を知る二人には、その歓声も一際大きく感じられた。
はじめてのフライト。第2回人力飛行機選手権。
歓声は笑い声に変わっていた。
飛び込み台を改造してつくった専用のプラットホーム。通称【飛び込み台】。
失速していく飛行機がほとんどで一瞬でも空中に留まることができたとしたら、それは勲章に値する。
全てが水しぶきの為に用意され、プラットホームに立つものは、ガッツポーズをして水面に飛び込むためにそこに立つ。
そして次の瞬間、それらの全ては水しぶきに変わっていった。
普段は静かな洞爺湖に一際大きな歓声があがった。
青色の水泳帽をかぶり、ゴーグルを目につけた男。
司会を務めるアナウンサーの声が彼の名を呼んだ。
北海道の短い夏の日。
そのプラットホームに立ったのだ。
あの男――畑俊彦――は、満面の笑みで。
「おかえり!」
福本アナウンサーは畑にそう言った。
畑はその言葉にひとつうなづくと言った。
「ただいまもどってまいりました!道南大学4年!畑俊彦です!よろしくおねがいします!」
会場は再び大きな拍手と歓声につつまれた。


 『Friend』フレンド 〜はじまりのはじまり〜

 ***第2話***


亜希子の運転するトラックがいつもの場所で停車した。
クラクションを軽く鳴らして、挨拶をする。
畑はよじ登るように助手席に腰掛けた。
「おはよ」
「はい、キャラメル。買っといたわよ」
「いつもすまないねぇ」
畑は寝癖でぼさぼさになった頭のまま、寝ぼけ眼を擦っている。
「どこまで行くの?」
亜希子のその問いにひとつあくびをして答える。
「ん〜っと、終点」
畑は「今日、休みだから、学校」と告げる。
亜希子は後方からの車が来ないのを確認して、トラックを走らせる。
しばらく走らせて、いつも下車する三叉路の近くで畑は口をひらいた。
どうやら、今日は降りる気は無いらしい。
「……あのさぁ、あきこはこだわりとかある?」
亜希子はひとつ煙草をふかして、窓の隙間に吹きかける。
「別に」と答える。
畑はその答えを待って助手席の目の前にある引き出しを開けた。
亜希子が運転中で動けないのをいいことに引き出しの中から次々引っ張り出してくる。
「ちょ、ちょっと、さわんないでよ。ちょっと、ちょっと、はたけ!そこのわるがき!こらっ!」
亜希子はクラクションを絶え間なく鳴らす。
「あ、なんこれ?」
畑がひとつ見つける。
「教員免許?」
亜希子は不機嫌そうに頬を膨らました。
それでも視線の先にミラーが捉える後方の景色に意識が行くのはトラック運転手としての性かもしれない。
畑は尋ねる。
「教員免許とったんだ。」
「そうよ。それで?」
「先生になりたい思うたん?」
「べつに。単位取るついで」
「ふ〜ん」
畑はじっと教員免許の文字に目を落としている。
呟くように言った。
「まだ、こだわれる?」
「どういう意味?」
「こうやって、大切にしてる」
「べつに」
亜希子は煙草を大きく吸い込んで吐き出した。
慣れた手つきで灰皿に灰を落とす。
「あきこさ?」
「なに?」
「先生んなったら?」
「はぁ?」
「なればいいのに」
「バカじゃないの」
「高校がだめなら、大学とか」
「キャラメルばっかり食べてるから、脳みそまでキャラメルんなっちゃったんじゃないの?」
「いや、まだ24でしょ?」
「それが?」
「いや、30までには先生になれるんじゃん?」
「冗談言うのもそのくらいにしときな」
「うん」
亜希子はふと、隣に座った畑に目をやった。
変わらずに亜希子の教員免許に視線を落としている。
普段ニコニコ笑ってばかりで冗談ばかりを口にする畑が、今日はいつになく真面目だった。
真面目な顔をする畑を、初めて見たのかもしれない。
畑は取り出した教員免許を目の前の引き出しに片付けた。
片付けながら、呟くように言った。
「こだわれるんなら、こだわればいいのに」


 ***

北海道の北の海まで来て、荷を降ろす。
納品書を事務室に渡して、配達証明書にサインをもらう。
いつもの作業がおわった。
亜希子がからっぽになったトレーラーに乗り込む。
畑が「おかえり」と言った。
亜希子は「ただいま」と言った。
トラックの道のりについてくる人なんていなかったし、いてくれるはずもなかった。
だけど、今日は畑がそこにいて、確かに亜希子の帽子を目深に被って眠っていた。
けれど、「おかえり」のひとことがうれしかった。

トラックを走らせて、道南大学の近くまでもどってきたとき、亜希子は門の前でトラックを止めた。
「ねぇ、はたけ?」
「なに?」
「大学院の入試要綱っていうの?ああいうのってあるの?」
畑は「ちょっと待ってて」と言うと、ドアを開けて走っていった。
畑は5分ほどで戻ってきた。
その手にはA4サイズの封筒が2通あった。
「自己推薦に、社会人入試ね」
「うん」
「やってやれないことはないんじゃない?まだ5月だし。ゲームだと思えば」
「ゲームってあんたね」
「大学は学生数減ってひーこらひーこら言ってんだ。大学院なんかもっとでしょ?」
「そりゃそうだけど?」
亜希子はトラックを走らせた。
何の前触れもなく、畑が口を開いた。
「あ、あのさー、俺、ちょっと外国行って来るわ」
「はぁ?」
信じられない言葉が出てきて、亜希子は耳を疑った。
「一緒についてくる?」
「バカ言わないでよ。なんで?」
理由が知りたくて、尋ねた。
けれど畑は
「いや、今朝ね、目が覚めたときに、海。もっといろんな海見てこよー思って」
「海?」
「んで、カーテンあけたらさ、空が気持ちよかったけぇ、あー、ついでに空も見てこようと思って」
畑という男はいつもそういう目をする。
一羽の渡り鳥が、背伸びをするみたいに木の上でひとり大きく羽を広げて閉じる。
「勝手に行けば」
亜希子はそう言うしかなかった。
「うん。勝手に行く」
畑は頷いて、さらりとかわす。しかも、嬉しそうに笑顔を向ける。
悔しくて、思わず目をそらした。
西の空に広がるオレンジ色の日差しが闇に吸い込まれていく。
「アパートはどうすんのよ」
「それで、頼みごとなんだけどさ」
「なによ?」
畑が助手席に正座する。
向かって左側の畑の右手で人差し指を立てる。
「あきこ?俺の家賃払うか――」
今度は向かって右側の畑の左手で人差し指を立てた。
「荷物預かるか。どっちがいい?」
「あんたバカだわ」
「どっちがいい?」
「大家さんに払っておけばいいの?」
「一年分渡しとくから、さしあたりね」
「ヤダ」
どう断ったとしても、畑のペースになる。
わかっていて、だけど、いつも罠にはまる。
「じゃあ、決まり。」
そう言われて亜希子は歯噛みする。
悔しいかな、そこに追い討ちをかけるのは、畑が自分より年下だという事実だ。
「ダンボール3箱だけだから」
畑は言った。
「冷蔵庫とかないの?」
「いらんと思って、買わんかった。この場所に居座るつもりもあんま無いし」
「洗濯機も?」
「コインランドリー」
計画的なのか、計画が無いのか。
賢いのか、ただのバカなのか。
「あっそ。で、いつ行くの?」
「あさって。もう決めたけぇ」
どっちに転んでも、畑はただのバカだ。大バカだ。
「パスポートは?」
「持っとるよ?」
「あっそ」
準備万端な、ただの大バカだ。
「どこ行くの?」
「とりあえず、アメリカ方面?」
畑はそう言って、ニヤリと笑った。
無計画にもほどがある。
けれど……。


 ***


二日後。
空港の駐車場にはスムーズに止めることができた。
サイドブレーキを引くと、畑が助手席のドアを開けた。
ドアの隙間の向こうから、飛行機が離陸していく音が聞こえてくる。
「空港まで送ってくれてありがと」
畑が慣れた動きで助手席から飛び降りる。
「帰ってくるんでしょ?」
畑の背中に放り投げた言葉に、畑がニヤリと笑う。
「帰ってきて欲しい?」
「バカじゃないの」
「じゃあ、帰ってくるよ」
「いつ?」
少し考えて、畑は言った。
「受験受かったら。」
「誰が?」
「あきこ」
「帰ってこないってこと?」
「なんで?」
「だって、受験なんかしないよ?」
畑がいつものバックパックを背負いながら言った。
「ふははは、わかりやすいウソつくんじゃけぇ。
 あきこが大学院受かるから、俺、帰ってくる。んじゃ」
「何言ってんのよ」
畑は意味ありげな表情でニッコリ笑う。
不意に真面目な顔をして、言葉を吐いた。
「こだわってみりゃいいじゃん。まだ、持ってんなら」
数秒間の沈黙が広がる。
畑の真直ぐな視線が、亜希子の心の奥に眠った灰色の希望に突き刺さる。
亜希子は目をそらした。
「しらない」
強がりたくて、けれど自分自身ですら気付かなかった、そこにこだわりが残ってるなんて。
「じゃ、いってきます」
畑は帽子をかぶった。
いつだったか、亜希子が持っていた帽子を欲しいと言ったから、そのままあげたそのスポーツキャップ。
「あ、ハタケー?」
「なに?」
「あのアパート、家賃安いよね?」
「うん、安いけど?」
「アタシ、あっち住む。どうせいないんだし、転がり込んでもいいでしょ?」
「あきこの今のアパートは?」
「今月いっぱいで来月更新。更新にお金かかるし、だから、出ようと思って」
「じゃあ、いいじゃん。敷金礼金安くしとくよ」
「なんであんたに払うのよ」
「一応、俺のだから」
「あっそ、じゃあ、管理費ちょーだい」
「OK。じゃ、トントンで」
「帰ってきたら、家賃セッパンでどう?」
「あ、それいいね。のった」
畑の笑顔に、心が苦しくなる。
「だから……」
「帰ってくるよ」
その言葉に、自分自身でも気付かなかった『感情』に気付かされる。
「部屋、勝手に使っとく」
「うん。よろしく、じゃーまたね」
空港の駐車場で見送った。
いくつもの飛行機が空に羽ばたいていった。
時間になって、アイツが乗った飛行機も、空に飛行機雲を描いて飛び立った。
それを見送るようにトラックのエンジンを吹かした。
畑の声が響いてくる。
――いや、まだ24でしょ?
なんとなく、アイツに置いてけぼりを食わされた気がして、
なんとなく、悔しくなって。
運転席と助手席の間に、ふたつ並んだ缶コーヒーの空き缶を目にして。
――いや、30までには先生になれるんじゃん?
助手席に転がった空っぽになったキャラメルの箱。
ちょっとだけ、淋しくなってる自分の心がそこに落ちていた。
――「こだわってみりゃいいじゃん。まだ、持ってんなら」
真っ青な空に残された一筋の飛行機雲。
亜希子はハンドルに八つ当たりした。
「バカばっかいいやがって」
だけど、約束は約束だった。
――あきこが大学院受かるから、俺、帰ってくる。
帰ってきて欲しいからじゃない。
そう言い聞かせるように、胸の中がかき乱されてくしゃくしゃになったままで、
だけど、ひとつだけの明るい希望のような光。
亜希子は去っていく飛行機雲の細い尻尾に向かって声を投げた。
「ふざけんなよ。ぜってー受かってやる」


 *つづく*