研究室の扉に小さくふたつノックの音がした。
礼儀正しいリズムで、学生がひとり入ってくる。
扉を少しだけ開けて、顔を出す。
その仕草がなんだか森下空に似ている。
以前、本人たちに似てるねって言ったら、同時に声を合わせて否定されたけど。
「しつれーしまーす」
大学3年生になった飛田慶太が顔を出した。
「どうぞ」
「せんせー」
「どうしたの?」
デスクの上をいつもどおり片付けて、CDのボリュームを少しだけ下げた。
「あ、論文書いてた?」
同じことを尋ねるのは、ここに顔を出す回数も同じくらいだからかもしれない。
「ごめん、うるさかった?」
「あ、いえ。邪魔しちゃったかと」
「べつに。大丈夫よ?」
「また、そのCD聞いてたから」
「あーこれ? 意味は無いけど? で?どうかした? あ、座って座って?」
亜希子が席を促すと、椅子に腰掛けながら慶太が言った。
「えっと、あのあれ。送別会の、工藤先輩へのプレゼントはだいたい決まったんですけど」
「工具箱?」
「はい。今使ってるの、僕らに残してくれるって言ってたんで。
それに、ホームセンターに行ってみてみたら、けっこういろいろ入れられそうで、手ごろなのがあったんで」
「いいんじゃない?」
慶太が渋そうな顔をする。
「問題は、空さんの」
亜希子はぼんやりと空の笑顔を思い出した。
なんでも喜んでくれる気がするし、だからこそ、ぴったりななにかをあげたい気もする。
「なにがいいと思います?」
思いつくのは、そう、女の子にとって無難なアイテム。
「おそろいのネックレスとか?」
「ふたりの?」
亜希子が頷くと、慶太は苦笑いして言った。
「そーゆーの、もう用意してるって言ってました。あのロマンチスト筋肉野郎」
ニッコリ笑う磯野駆くんの表情が浮かんだ。
「あ〜、しっかりしてるのね」
亜希子が感心していると、妙に冷静な声で慶太が言った。
「だから、困ってるんです」
慶太が大きくため息をついた。
それとほぼ同時に亜希子も大きくため息をついた。
似ているのは空と慶太だけじゃないのかもしれない。
「なにがいいかしらね?」
亜希子が腕組みをして考え込んでいると、慶太が椅子から立ち上がり、机の上を指差した。
「あ、これ!」
「え?」
少しだけ小さな音で奏で続けるCDラジカセ。
慶太は言った。
「サントラのCD。っていうか、先生の、このCD」
「これ?」
「空さん、けっこう気に入ってますよ。時々鼻歌で歌いながら部室戻ってくるし」
「あ〜」
「これ、コピーできますよね?」
「大丈夫じゃない?古いCDだし」
亜希子がそう言うと、慶太がカバンからUSBメモリを取り出した。
「データだけもらえませんか?」
「いいけど」
亜希子は受け取って、論文を書いていたパソコンに差し込んだ。
以前パソコンに入れておいたデータを探し出す。
亜希子の作業を見つめながら、慶太が少しさっぱりした顔で言った。
「あとは、テキトーにハンカチとか、なんかそういう小物類で、女子になんか考えてもらいます」
慶太は肩の荷が下りたのか、慣れない課題が大きすぎたのか、座った椅子で背伸びしている。
画面がUSBメモリを認識し、音楽ファイルをクリックして曲目全てを選択し、移動させる。
慶太が尋ねた。
「あ、そうだ。先生、それ、いつ買ったんですか?」
「買ってない。もらった」
「あ、それもプレゼントでしたか」
「うん」
「誰から?」
「えっと……」
なんて伝えるのが適切か迷って、パソコン画面で点滅する『コピーしています』の文字。
数秒間だけ迷って、だけど、説明する単語がそれしか思いつかなかった。
たぶん、適切だと思う。
亜希子は言った。
「えっと……、知り合いのバカから」
***
『知り合いのバカ』が亜希子の前に再び現れたのは、北海道の桜のつぼみが大きくなりかけていた季節。
春になって、雪解けを待つ渡り鳥みたいに、畑俊彦はひょっこり戻ってきた。
畑のだったアパートの狭い部屋で、亜希子は待っていた。
今朝、というよりつい2時間前に「ついたよ」と件名にだけメッセージの入ったメールが来た。
次のメールで「空港が味噌くさい」とかなんとか。
どこに着いたのか尋ねると、「北海道」だと言う。
知り合いのバカのバカっぽいメールにあきれた亜希子の決断は、「家で待つ」その4文字だった。
玄関のチャイムが鳴った。
安っぽい音の向こうで、ガラガラと音を立てるスーツケースの音。
わかっていて、わかっているから、だから、一歩戸惑った。
亜希子は胸のあたりを押さえて、深呼吸した。
悟られたくない。
待ってた。なんていう乙女チックな自分が嫌いで。
だけど、『バカ』の存在が必要なのは他でもなく亜希子自身だった。
だから、一言目をかわいらしくなんて言えなかった。
ドアを開けると、無精ひげの畑が立っていた。
畑がにっこりと笑う。
亜希子は言った。
「遅かったわね」
その言葉に、畑は至って自然に言葉を返す。
昨日までそこに居たみたいに言いやがる。
「あー、なんか、車、混んでた」
けれど次の瞬間目を輝かせた。
亜希子が住んでいる部屋を見渡して言った。
「へぇ〜俺のアパートこんなんなるんじゃ」
子どもみたいに嬉しそうな反応に少しだけ安心している亜希子がいた。
「カーテンもないとかありえないでしょ?」
「暖房と布団があれば充分じゃけぇ」
まったくあきれてモノもいえない。
効率が好いといえばそうなのかもしれないけれど、人間としての基本が抜けてる。
それも、そろそろ疑ってかかるべきなのか。
畑はちょっとかしこまって亜希子に訊ねる。
「荷物おいてええ?」
「少なくとも、半分はあんたの家よ。」
その言葉ににっこり笑って荷物を置いた。
ちいさな玄関の、その隅っこに。荷物だけは礼儀正しく。
畑が部屋の奥で窓の外を見ている。
マグカップを2つ用意して、インスタントのコーヒーの蓋をあける。
畑のマグカップにコーヒーの粉を入れてしまってから、気が付いた。
「コーヒーでいい?」
亜希子が尋ねると、「うん」と無関心な気のない返事がかえってくる。
やかんからお湯を注ぐ。
安っぽい香り。
だけど、今日の香りは、ちょっと緊張感のある香り。
この場所で、誰かのためにコーヒーを淹れるなんて、そういえば、なかった。
「あ、そうだメール見たよ。仕事辞めたんだって?」
「そっち?」
思わぬ問いにつかみ損ねた牛乳パックが冷蔵庫のポケットにストンと戻る。
「ホントに受験したんだね」
冷蔵庫をあけたままで、マグカップ2つ分にちょっと多めの割合で牛乳を注ぐ。
「あのねぇ、」
振り返るとすぐ近くに畑がいる。
マグカップを手渡すと、優しいコーヒーの香りに、またこどもみたいににっこり笑う。
「桜、咲く前に、桜咲いたね」
なんか悔しくて、亜希子はマグカップの端っこを前歯で軽く噛んだ。
おそろいのマグカップを手にして、『バカ』は気づきもしないでコーヒーを飲む。
畑のマグカップは新品で。
亜希子のマグカップは昨日も使った。
空港でこの男を見送ってから、この部屋で過ごした時間が長く感じた。
「あんた、どこにいたの?」
亜希子の問いに、さっぱり忘れてたことを思い出したみたいな顔して、「昨日まで、フランス?」と言いやがる。
あきれていた亜希子に畑は一歩近づいた。
じっと目を見つめる。
ひさしぶりに見る畑俊彦という男。身長が亜希子より頭一個高い。見上げた先で、にっこり笑って見下ろされる。
その男は言った。
「大学院、合格おめでと」
マグカップを差し出して、乾杯を要求する。
「それも、そうだけど」
ちいさな音で乾杯をして、こどもみたいな笑顔のその男に、亜希子もこどもみたいに駄々をこねてみたくなる。
もっと、上手に甘えられる女だったらいいのに。
下手だから、ただただ機嫌が悪いみたいに思われる。
畑は言った。
「ただいま」
亜希子は小さく頷いた。
頷いたまま、マグカップの中でゆれるコーヒーを見つめていた。
畑という年下の男は、だけど、優しい手で、亜希子の頭を撫でてくれた。
「あきこ、ただいま」
本当は泣きそうなくらい安心していて、どれだけ心配したか殴りつけたいくらいなのに。
そういうのを上手く演れる女じゃない。
亜希子は見上げた視線のままで、震えそうな声がばれないように強がって言った。
「……おかえり」
『Friend』フレンド 〜はじまりのはじまり〜
***第3話***
二人が通う道が同じ距離になって。
ついでに、トラックから自転車になった。
畑がこいで、亜希子が後ろ。
大学生の畑俊彦と、大学院生の亜希子は、同じアパートで起きて、同じ敷地内の校舎で学んだ。
畑はコンビニでアルバイトをして、亜希子はその隣のクリーニング屋さんで同じ時間だけアルバイトした。
ふたりは同じアパートで晩御飯を食べて、ともに眠った。
だから、なんども「おはよ」っていう言葉を投げて、
だから、なんども「おはよ」っていう言葉を返した。
偶然が重なって、偶然転がり込んだ日常で、だけど、ずいぶん前から決まってたみたいな気がする。
そういう時間が幸せってヤツなのかな?と考えて、亜希子は空を見上げた。
同じ瞬間を、同じ時間の流れの中で過ごしている。
青い空にゆっくりと流れていく白い雲。アタリマエみたいな色して浮かんでいる。
窓を開けた先にある、日当たりだけは良好な小さなベランダ。
――布団干そうか?
の延長戦。
畑がよいしょ、と敷布団を持ってくる。
ふたりで並んでパタパタやった。
今日は天気がいい。
亜希子はふとんをパタパタとやりながら、気分で気のまま。
「ねぇ、ハタケ?」
「なに?」
「ありがと、ね」
畑は笑って、
「なんじゃ急に?きもちわりぃ」
だけど、うれしそうに笑ってくれる。
こういうのを、今の自分が過ごしていることを改めて認識してしまった。
「なんでもない、バーカ」
そういうふうに言うのは、背中がむずがゆくなったから。
畑はベランダの網戸だけを引いて、「あ、そうだ、忘れてた」と押入れにあたまをつっこむ。
畑はくしゃくしゃになった包み紙の、【何か】を取り出した。
英語で言うとしても【something】でも【anything】でもない。まして、【what ?】なんてきれいな単語になりそうもない。
とりあえず、日本人だから、「なに?」って聞くけど、【おい?】って感じ。
その【why?】の包みを畑は亜希子に差し出して、言った。
「お土産」
「はぁ?どこの?」
「イタリア?か、ドイツ?あーオランダだっけか?」
「っつーか、何ヶ月たったと思ってんの?」
「えっとねぇ、9ヶ月?」
「今更にもほどがあるわよ」
毎日同じ場所で寝て、起きて。
隣の場所でバイトして。
そんな相手に【お土産】と言われる。
畑は「いや、だから、忘れとったんだって」と素直に謝った。
どこをどうほっつき歩いてたわからないあの当時のこの男に、だけど、【お土産】を私に渡す気があったということに驚いた。
困っているのは亜希子だが、心の中に湧き上がってくる【うれしい】という感覚が信じられなかった。
「9ヶ月ぶりに?どう喜べと?」
そう茶化して、ごまかそうするけど、やっぱりこの男に一本食わされる。
「いいじゃん?あの日みたいに、泣いちゃえば」
「バーカ」
思い出したくないくらい、泣いてしまったあの日を、この男は知っている。
「『なんでもない』って言いながら、泣いちゃえばいいじゃん?」
「うるさいなー、」
「はい、おみやげ」
「はい、はい、はい、ありがと、ありがと」
強がってるのがバレバレで、畑は大笑いする。
悔しくて。
だけど勝てそうに無い。
「ありがとうござい、ま、す」
「あけないの?」
「あけない。」
「なんで?」
「10ヵ月後に開けてやる」
「そりゃいい。ポルトガル人もびっくりのギャグセンス」
初耳なフレーズ。
「ポルトガル?」
そういう文化なの?って気になって。
「あー、別に彼らのギャグが秀逸ってわけでもないけど」
がっかりさせられる。
亜希子は包みを破るようにこじあけた。
「なにこれ」
「CD」
見ればわかる。
「なんの?」
「なんかの」
「だれの?」
「え?なにが?」
「なにが?じゃなくて、だれかのなんでしょ?」
「あ、えっとねぇ、ふら〜っと入ったお店で、ジャケット買いした。きれいでしょ?その青い海と空のパッケージ」
「聞いた?」
「それがさ、聞いて無いんだよ」
「アンタ、バカ?」
そう尋ねた亜希子の問いに、
「なに?いまさら」
畑の正しい返事。
だけど、畑はちゃんとポータブルのCDプレーヤーをもってきて、亜希子にイヤホンのLのほうを渡す。
「聞こうよ」
「学校行きながらね」
そうやって、お姉ちゃんみたいな、母親みたいな台詞を言ってる亜希子がいる。
コロコロ変わるのは、畑の気分次第。
だけど、こういうのも好きな亜希子がそこにいた。
思わず笑顔になって、畑の背中に声を投げる。
「寝癖どうにかしてきなさいよ」
台所の蛇口から水を出す音がして、 「はーい」 と元気なコドモの声がする。
CDのジャケットみたいに青い空が、ココロの中にも広がっていく。
***
思い出すのはそういう何でもない日常ばかり。
ずいぶんと古めかしいレコードだったりしたら、ちょっとは懐かしい思い出にできるのに。
CDのジャケットの青い空は今でもキラキラと輝いている。
慶太から受け取ったUSBメモリにCDの音楽データをコピーする。
全12曲の、だけど、緑色に伸びていくコンピューターの作業はほんの数秒×12回。
どんどん作業は進んでいく。
なんとなく、そのうちの一曲を再生する。
淡々とパソコンにこなされるのがわずかに悔しくなって、負荷をかける。
慶太は受け取ったCDのケースを眺めながら呟くように言った。
「あ、それもプレゼントでしたか」
亜希子は頷いて答える。
「誰から?」
亜希子は画面を見続けながら、机にひじをついて、音楽プレーヤーの渦巻きのような再生画面に目をやった。
「知り合いのバカから」
「知り合いのバカ?」
「そ。ハタケトシヒコ。あ、でも、慶太くんは知らないか?」
慶太に目をやると、右上の天井を見上げるようにして、何かを思い出したのか言った。
「飛行機、空中分解した人?」
「あ、それ、その人。そのバカ」
「いい音楽ですね」
「どこで買ったかわかんないんだけどね」
「あぁ、なるほど」
「バカだから、覚えてないのよ。」
パソコン画面にアラートが表示される。
マウスを簡単に操作して、適切な手順でUSBメモリを取り外す。
小さなそのUSBメモリのキャップをかぶせて慶太に手渡す。
「はい、とりあえず、USBメモリ。全部入ったよ?」
「ありがとうございます」
慶太は両手で仰々しく受けとった。
「どういたしまして」
慶太はカバンにUSBメモリを片付けると、まっすぐ顔を上げた。
「あの、ひとつ聞いておきたいんですけど」
「うん。どうしたの?」
眼鏡の奥で、真面目なその目が一度、瞬きをした。
「部長として、どう、したらいいんですかね?」
「どうって?」
慶太は左手で後頭部を掻きながら言った。
「いや、なんていうか、どうしたらいいのかわかんなくて」
「あぁ、方針とか、方向性とかそういうこと考えてる?」
「ええ。たぶん、それっぽいこと」
「ん〜。そうね〜。」
亜希子は少し考えて言った。
思いつきだけど、ここ何年か大切にしているそのキーワード。
「なんかひとつだけ、慶太は慶太なりに、なにかこだわりを持ってみたら?」
「こだわり?」
「そう。こだわり」
慶太は少しうつむいて、真面目に考えている。
「こだわり。ですか」
呟くように言った。
あのころの私も、それなりに真面目に考えて、真面目に悩んだ。
あっけらかんとあのバカが放り投げてきたその言葉に戸惑いながら、だけど、後悔はしていない。
トラックを運転していたこの手で、今は論文を書いている。
だけど、後悔なんてしていないし、むしろ、感謝しているんだと思う。
先生っぽい立場にいて、こどもたちに頼られる。
押し付けたくないから、なんていうか、あの男の、なにも考えてなさそうなそういう言い方を真似してみる。
そうやって何年かしたら、それが自分の癖みたいにしみこんでくる。
先生なんて自覚はないのに、先生っぽいことをしている。
慶太が顔を上げるのを待って、伝えてみることにした。
「あと、1年だし。空ちゃんほど長くはないでしょ?部長っていう時間」
慶太はひとつ頷く。
「だから、ひとつだけ、自分はこれをこだわりたい。って」
慶太は「あ〜」と納得している。ピンときた感じ。そういうときは、ちゃんといい目をしてる。
「空ちゃんは、なんていうか、とりあえず飛ぶ。にこだわって。
ふたりで飛ぶ。ってこだわって。
改めて、目標をしっかり見据えるっていうそういうこだわりを今年一年やってきた」
慶太は頷く。
「わかりやすかったでしょ?」
そう尋ねた私に、慶太は首を立てにひとつ頷いた。
「慶太は?」
「僕は……」
たぶん頭の中フル稼働。データ解析中。慶太の一番苦手な、自分のココロってヤツとの対話。
「あくまでも設計担当ってところにこだわりたいのかもしれない。だけど、」
慶太は眼鏡を正して、亜希子に言った。
「僕は、正直言って、設計って作業をしないほうがいいと思って」
「それは、部長として?」
慶太は頷いた。
亜希子は尋ねる。
「自分は?」
「自分ですか?」
「そ。自分。飛田慶太。」
慶太は、少し迷って、だけど、きっぱりと言った。
「設計やってたい」
亜希子はにっこり笑った。
そう言うと思っていたから。だって、そうじゃなきゃ、この大学にだって来てない子だから。
それと同時にうれしかった。
亜希子が一緒に歩いてきたこの3年間と、慶太の過ごしたこの大学での3年間。
それが、彼にとって間違いではなかったから。
「それでいいんじゃない?」
慶太は戸惑っているみたいだった。
亜希子は続ける。
「自分は徹底的に設計やる。」
慶太の解析データが未整理のままみたいに質問を返してくる。
「それじゃ、来年のサークルは……」
「成り立たない?」
亜希子の質問に、慶太はうつむいた。
「怖いです」
その正体はなんだろう?リーダーシップっていうカタカナに慶太が怯えている。
テーマに関して、仮説を立ててみる。そういう手法は慶太が好きなプロセスだ。
だからこそ、仮説1。
亜希子は言った。
「じゃあ、徹底的に設計やったら?」
慶太はすばやく回答を出す。
「全体が見えなくなる。そこまで、器用じゃないです」
「って思うでしょ?」
「どういうことですか?」
「空ちゃんの方がもっと不器用」
「そうは思えません」
「時間をかけて出来上がったせいかもしれないわね」
空をリーダーだと思える。
それはすばらしい信頼。
チームがチームになってきた証拠。
だけど、ある種、幻想がそこにある。
昨日今日で出来上がったもの。とか、空はそれだけの才能を持っていた。みたいな幻想。
慶太が口を開いた。
「僕は正直、徹底的に設計やってたいです。やっと思うようにできるようになってきた」
「他の人たちは?」
「他の人?」
「そう。例えば、カケルくんとか?」
「とにかく走るために万全の状態をつくってもらわないと、エンジンだから」
「うん。それでいいんじゃない?」
「自分たちが自分たちの万全の状態をつくるってことですか?」
「そう。それぞれの役割分担ってそんなにあいまい?」
「いえ。けっこう定まってきてます。後輩のみんなも、それぞれ好きなほうに近づいてるし」
「それでいいんじゃない?」
「来年のチームは?」
不安な顔で私を見つめる。
リーダーシップの素養でいうと、空ちゃんより慶太くんのほうが持ってる気がする。
だけど、方法が全く違う。
慶太は、不安な要素に対して結論を求める。だからこそ、動き出す前に、動けなくなる。
だから、言ってみる。先生っぽい仮説2。
「今年徹底的にプロフェッショナルになりなさい。ってのは?」
「プロ。ですか」
「そう。専門家。そうすれば、後輩はちゃんと育つんじゃない?」
「そっか。わかりました。」
慶太くんは、自分なりの結論を用意している。
ずいぶんと考察を重ねた、結論。
実行に移す前に必要なのは、だれかの後押し。
大丈夫よ。っていうその言葉。
ずいぶん前に、亜希子が、あの男にもらったそういう見えないチカラ。
慶太は少しだけ晴れ空が広がった顔をして言った。
「それでひとつ、僕なりにこだわってみます」
「うん。充分立派よ」
「そんなことないです」
亜希子よりも、空ちゃんよりも、あの男よりも、ずいぶんとオトナな気がする。
「あの男はね、」
「ハタケ先輩ですか?」
「そ。アイツはね、空だろうが、海だろうが、どっちでもいいって言ったの。」
「空でも海でも?」
「そ。飛べたら飛ぶし、落ちるときは落ちる。だけど、目の前にあったからチャレンジしたいって。それだけ」
「チャレンジ」
「そう。挑戦する。とにかく挑戦する。それだけにこだわって、変な飛行機つくって、」
「洞爺湖で空中分解?」
「そう。だけど、後悔なんてしてなかった。全力で挑んで、全力で吹き飛ばされて、アイツ笑ってたから」
慶太が笑顔になった。
たぶん、亜希子も笑顔になったから。
「先生、ありがと」
「自分に正直に生きなさい。それでいいから。それがちゃんとみんなのためになるから。
大丈夫よ。今年を乗り切らないで、来年なんて見えてこないから。
慶太、慶太は今年のサークルに責任をもちなさい。
慶太のやり方で。自分に正直なやり方で。
それをみんな待ってる。それでいいのよ」
慶太は頷いた。
にっこり笑って、「ありがとうございます。」と言った。
そして、ついでにひとこと、慶太が言った。
「僕もハタケ先輩に負けたくありませんから」
「ええ? もうずいぶん圧勝だけど?」
亜希子が微笑むと、
「心の、なんていうか、芯の強さっていう意味では、まだ勝ててません。そんな気がします。」
慶太の言葉に、なんとなくしっくりきた。
芯の強さ。
憧れていたのかもしれない。
そう思った。
近くにいて、言葉を交わしたぶんだけ、その理由がわかるかもしれない――と、そう思っていたのかもしれない。
慶太は言った。
「今週中にざっくりミーティングします。日程決まったら。先生もきてください」
亜希子は頷いて答えた。
慶太は椅子から立ち上がり、いつもどおり、「失礼しました」と告げて丁寧に研究室の扉を閉めた。
もっと、傍に居たいと願っていたのは、愛情でも友情でもなく、憧れだったのかもしれない。
年下のその男を、『先輩』と呼ぶ。
亜希子にとっても、年下の『先輩』だったのかもしれない。
もし、亜希子がすでに芯の強さを持っていたら、今日もまだ、トラックのハンドルを握っていたんだと思う。
けれど、悔しいくらいに、あの日がよみがえってくる。
赤信号の横断歩道を、こどもみたいに駆けてくる。
車が来てない赤信号を、真面目に立ち止まってる亜希子に向かって。
こどもみたいに駆け寄ってくる。
そういう夏の日。
***
日曜日の交差点。
車が一台も通らない。
自転車が一台、チェーンを軋ませながら、横切っていった。
横断歩道の向こう側で、左右も見ないでこどもみたいに駆け寄ってくる。
畑俊彦の手に、一枚の紙切れ。
うれしそうに、亜希子の名を呼びながら、走ってくる。
「あこー」
「なに?なにか見つけたの?」
母親になるって、こういう感覚なのかしら。とか錯覚しながら大学生のコドモの面倒を見る。
「これ!」
急に近寄る紙切れ。
「なに?」
近い。
「読んで読んで」
だから、近い。
目の前で、微妙に揺れるその文字をかろうじて判別する。
地面に立ってるのに、ちょっと、車酔いの予兆。
「第1回人力飛行機選手権 in洞爺湖?」
亜希子が読み上げると、にっこり笑ったハタケが顔を出す。
「第1回だってよ!」
「いつ?」
「今日!もうすぐはじまる」
「どうすんの?」
「行くっしょ〜」
「はいはい」
始まった。そのテンションでハタケは海外まで散歩しに行く。
ブレーキの無いポンコツの車みたいに、アクセル踏みっぱなしなくせに、念のため、理由を述べる。
「バイトも休み、学校も休み。俺らふたりとも休み。明日も休み。これは運命でしょ!
レンタカー借りて、ぱーっと行ってみようよ!」
「もしつまんなかったら?」
亜希子が尋ねる。
「夏の北海道をドライブ」
「ん〜、それならいいわよ」
待っていたはずの信号がまた、青から赤に変わる。
青になったのは、レンタカー屋さんのある方の信号。
そっちもタイミングがいいみたい。
赤でも渡るこの男には関係の無い話ではあるが。
畑が珍しく考え込んで、横断歩道の真ん中あたりで言った。
「もしくは、終点。小樽港のセンター倉庫まで行く?」
にっこり笑った。
アクセルとブレーキのタイミングを完全に覚えるくらいに通った道。
「もう、あのルートはかんべんしてよ」
だけど、畑に出逢うことができたのも、間違いなくあのルート。
畑がうれしそうに笑っている。
幼稚園の遠足みたいに、畑と手をつないで。
***
駐車場に車を止めた。
エンジンを切ったとたんに、遠くから歓声が聞こえてくる。
砂浜を指差して畑が言った。
「あ、やっとるやっとる」
小さな浜辺の、ちいさな会場っぽいもの。
洞爺湖の隅っこで、工事現場みたいな、だけど、ちいさな足場が組んであって。
2メートルくらいの飛び込み台から、次々にいい年こいたオトナたちが夏の洞爺湖に水しぶきを上げていった。
浜辺にこしらえたテントの下で、家族たちが大笑いしながら、
ビール片手に手作りのお弁当をつついている。
そんな休日の小さなお祭りを家族ぐるみで楽しんでいた。
地元のケーブルテレビだろうか。
真っ黒に日焼けした男が、マイクを片手に盛り上げ役をやっていた。
スピーカーから男の声が拡声されている。
みんなが知り合いで。
みんなが仲間のように楽しんでいて。
夏にしか味わえない楽しみを、この北海道で満喫している。
畑が呟くように言った。
「なんか、ええな。あのおっさんたち」
「あんたも飛び込んできたら?」
亜希子は冗談で言った。そう、冗談で。
畑がマジメな顔をしている。
いやな予感。
だけど、確信。
それが起きないほうが、この状況不自然な気がする。
畑が言った。
「出れるんかな?」
亜希子は首をかしげた。
畑はズボンのポケットに手を突っ込んで、財布やらゴミみたいなコンビニのレシートやらを亜希子に預ける。
「ちょっと聞いてくる」
亜希子は頷いた。
ですよね。
という、安堵感にも似た結果。
浜辺を走っていく。
だんだん小さくなっていくハタケの背中。
アスファルトから、階段を降りて浜辺を駆けていく。
パラソルを開いた場所に立ち寄って、飛び込み台を指差している。
たぶん、断られてちょっとだけしょんぼりしながら帰ってくるのだ。
人間には、できることとできないことがある。
だから、ソフトクリームでも買ってあげよう。
お子様には、アイスをあげれば気がまぎれる。
畑から預かった財布を開いた。
ちょうど100円玉が2つ。
これなら2人分。買える。
そう思った瞬間。
「え?うそ!アイツ、なにやってんのよ」
遠くのスピーカーから思いがけない声が呼ばれた。
「さーーーあ、ここで!急きょ!参戦!決定!お名前を!」
畑が右手をまっすぐに上げて言った。
「はたけ、としひこです!道南大学3年です!」
「事前のエントリーは!」
「してません!」
「エントリーしてません!」
会場から拍手喝采。
「さっき、あのおっちゃんに、ええよって言われたんで」
「おっちゃん?だれ?」
「あの、あのひと」
海に突き出した手づくり感満載の工事現場の足場。
その上でインタビューに答えている。
少ない観客の、だけど妙に心を掴んでいるその会話。
アナウンサーもやけっぱちなのか、さっきまで以上に盛り上げている。
「さぁ、今日、用意して来た飛行機は!」
そう尋ねられて、ハタケは嬉しそうに披露する。
さっき車の助手席で鼻歌を歌いながら折っていた2つの飛行機。
「じゃーん」
「おーーーステキな飛行機!」
「軽量化を意識して、制作しました」
「制作日数は?」
「このカタチになるまで、20年」
「改良を続けて20年!今、何歳?」
「22です!」
「人生をかけて、この飛行機に!」
「はい!」
「これ、なにでつくったの?」
「今日の、チラシ」
畑、満面の笑み。
アナウンサーっぽい人とのやりとり。
妙な流れと、意味のないハイタッチ。
夏の海と、ビールの空き瓶。
そんな観客からの熱すぎるエール。
「さぁ!挑んでいただきましょう!
第1回人力飛行機選手権のチラシでつくった紙飛行機!
紙飛行機を、なんとぜーたくにふたつ!右手と左手に!
大きくかかげたー!
意気込みを!」
「世界新記録塗り替えます!」
「出たー!出ました!世界新記録樹立宣言!!」
小さな浜辺に大きな歓声。
畑が冷静に尋ねる。
「あ、ひとつきいていいですか?」
「あ、うん。どうしたの?」
「来年って、2回目やるんすか?」
その問いに、アナウンサーが浜辺に座った男性に声を投げている。
「あ、2回目?
ねぇ、会長?来年もやる?
やる?やらない?」
浜辺に座った男が腕で大きく○を描くのが見える。
「やるって。」
「んじゃ、来年!ぜったいでます!」
「会長!来年出たいって!」
会場が盛り上がる。
きっと誰もが今年のことしか考えてない空気が、少し離れた駐車場の亜希子にも伝わってくる感じ。
だけど、畑の一言でそれが動いた。
「来年もやると、今たった今決定しました!
飛び込む前に、聞いとこうか!
来年に向けての意気込みを!」
「紙ヒコーキじゃない、ちゃんとした飛行機つくってきます!」
その声が、マイクを通じて妙にはっきり聞こえた。
嘘じゃない。冗談じゃない。
畑がマジメに、ちゃんと真顔でそれを言ったから。
拍手が手拍子になる。
まるで陸上競技のアレみたいに。
アナウンサーがその瞬間を盛り上げる。
亜希子も思わず見入っていた。
「さぁ、飛び込んでいただきましょう!羽ばたいていただきましょう!
畑くん!洞爺湖の空に!Fright!」
畑が助走を始める。
右手に紙飛行機。
左手に紙飛行機。
両手で掲げて、走り出す。
一歩、一歩。
木の床のガタガタ言う不安定な音がして、畑が踏み切った。
世界新記録とやらが、今、ここで創られるその瞬間に立ち会うことができた。みたいな妙な緊張感に包まれて。
その一瞬、会場全体が息をのむ。
その一瞬、音が消えるみたいに。
その一瞬、畑の体が宙に浮いた。
次の瞬間、水しぶきがあがって、会場全体から笑い声があふれ出す。
バカな大学生が、ただただ走って、海に飛び込んだだけなのに。
ちょっとだけ、ドキドキした。気がした。
水面から顔を出した畑が、一番に、亜希子に手を振った。
あいつはいつだって後先考えずに、生きている。
その場のノリと勢いで、いつだってあとのことなんか考えてない。
楽しそうなことに貪欲で。
楽しみたい気持ちでいっぱいで。
着替えなんか持ってきて無いのに、洞爺湖に飛び込んでしまう。
だけど、ポケットの中に入ってた財布とか、そういうのだけちゃっかり私に預けて。
なんか、そういう細かいとこはしっかりしてて。
だから、むちゃくちゃなんだけど、安心して見ていられる。
みんなが楽しんでる、そういう空気が好きなんだ。
あいつの頭の中、きっとそういうことだけでできてる。
ずぶぬれで畑が浜辺にあがってくる。
おじさんたちに背中を叩かれる。
ビニール袋をおばちゃんから手渡されながら。
みんなに笑われながら、みんなに拍手されながら。
ひときわ笑顔で、こども見たいに駆けて帰ってきた。
「あこー!」って手を振りながら。
車の横へ、亜希子の傍に今度もちゃんと戻ってきた。
「やっべぇ、チョーきもちいい!」
「なにやってんのよ」
タオルで顔を拭いながら、畑が言った。
「会長の奥さんにバスタオルもらった、ほら、旅館の名前入り、いいでしょ。今日の参加賞!」
「もう、バカなんだから」
だから、憎めない。
そういう笑顔を、この笑顔を見ていられる瞬間って、しあわせになる。
「あこー、俺、決めた」
「なに?」
畑がマジメな顔をして、片付けの始まった会場をみつめている。
「来年のこの大会、俺、飛行機つくって出てみるわ」
*つづく*